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対話篇09 花→青 19

いやあ、ひとつ前の青木君の対話編の書き込みから1ヶ月近く経っていました。
こちらがさっぱりの間に、学生諸君の間の書き込み合戦はすごかったですね。
去年とは全く雰囲気が違うので驚きました。
2、3書き込んではみたのですが、いつの間にか議論についていけなくなって、呆然としているうちに1ヶ月です。

いよいよ今週末、12日(土)が最終講評会です。
神戸芸工大の学生諸君は、3年生は実習課題の締め切りと重なりあせっています。4年生は卒制までまだ時間があり、院生は時間的には一番余裕がある。
「どおーなってるの」と覗こうとしても、見せてくれません。
ま、それでいいですよね。
僕が余計なことを言えば言うほど、きっと青木君の思いからは遠くなる。学生もそのことを知っているのでしょう(笑)。

ところで、『新建築』コンペの青木君の選択と講評はほんとに面白かったね。
ブログにも書きました。
「住宅、映画の世紀を経験して」という、僕にはどうしたらいいのか見当もつかない課題なのに、世の中には優れた才能が潜んでいるものだ。
1、2、3等案はすごいですね。
出題した方も出題した方、それに応えた方も応えた方。
あっぱれ!です。
佳作を含めた全作品に寄せられた青木君のコメントもまさに青木君。
去年のオープンスタジオで感じた印象を思い出しました。
ひと言もけなさない。
どんな球が飛んできても、必ずテーマである「映画」を軸に受け止める。
映画についての青木君の間口の広さがよくわかる。
けなす暇などないわけだ。

学生諸君、12日の講評会もきっとそんな厳しくも楽しいやり取りが飛び交うはず。
頑張ってください。
神戸で待っています。
賞品は青木君が選んだ本です。
すべて到着しています。これもお楽しみに。

対話篇09 青→花 18

今年は、最終講評作品を選んで、とりあえずのコメントを書いたら、それぞれの人からコメントへのコメントの書き込みがあり、さらに、花田くんのすばらしいコメントが入り、しかも、参加している人たちの間でもコメント交換がはじまって。

ぼくとそれぞれの人との1対1のやりとりに終始した去年とくらべ、とってもいい感じですね。

花田くん、もっと、もっと書き込んでください。

学生の人たちも、もっと、もっと書き込んでください。

対話篇09 花→青 17

青木君、最終講評対象作品の選定、ありがとう。
応募して下さった皆さんも、ありがとう。
結果を発表しましたが、いかがでしたか。
今年は「ドローイング」という言葉にやや戸惑った人もいる印象で、どうなることかと思いましたが、結果的には応募作品数は去年より減りつつも、レベルは去年以上に高かったと思います。
アクセス数も一気に増加。発表した11月6日が1,617、7日が1,213でした。
そんなに気になるなら応募してこいよ!とは去年も書いたこと(笑)。

10作品は青木君だけで選んでいます。僕は口出しをしていません。
去年も同じです。
届いた作品を一式彼の元に送り、選考してもらう。
もちろん学校名も氏名も伏せてです。

でも、送る前に、僕も自分なりに選んでみます。
で、青木君からの結果と照合する。
試験受けてるみたいで、結構ドキドキします(笑)。

今年は僕も10作品を選びましたが、実はそのうち、青木君と重なったのは6作品でした。
また残り4作品のうち、2作品は僕も迷いつつ別の2作品の方にしたのでした。そしてさらに残りの2作品は、僕にとってはやや思いがけないものでした。

青木君の眼は本当に揺らがない。そのことを痛感しました。
具体的にどの作品かを言うのは止めておきますが、図面の完成度が一見高くても、本質的なことに欠陥があると、さっと候補者からはずしてしまう。
選ばれなかった人は、もういちど自分の作品を見直してみて下さい。
大学の授業なら全作品を講評しますから(少なくとも僕らの学科では)、この「授業」でもそうしようかなと思わなくもないのですが、この「教室」は大学の閉じた教室とも違うので、迷いつつ最終講評対象作品のみとしています。

選ばれた10作品をあらためて眺めてみると、決して意図したことではないでしょうが、ひとつの傾向に偏らず、いろんな考え方がちりばめられていることに気づきます。「まるで青木事務所のスタッフ構成のようだね」とは、僕が青木君に送ったメールですが、疾走するピューマから必死で貝を割るラッコまでいろんな動物たちがいて、僕が唱える(唱えているんです)「青木事務所=動物園論」の証拠のような結果です(笑)。
でもきっとそこにはある一貫性が存在する。それを考えることは青木淳論への手がかりになるわけで、評論家にとってまことに有意義な企画であります。

去年と同じように、青木君からの講評が書かれています。
いずれもそれじたいが興味深い内容です。
選ばれた10人の人は必ずコメントを返して下さいね。

対話篇09 花→青 16

前回に続き、青木君への手紙ということではないのですが、僕らの学科サイトに中間講評を受けた学生へのインタビューが載っていたのでリンクしておきます

 「少しは青木さんの言葉を吸収できたかも」
 「においとか世界観とか自分の感覚をすごく大事にしているのかなぁ」
 「言葉にできない好き嫌いがあるんよ」
 「まぁね。やるしかないね!!」
 「思っていたより緊張しなかったかな。カンペもあったし」
 「建築の話じゃなくて、体験や経験の話をしきりにしてはったな」
 「なんかお母さんんみたいに優しかったし」

学生っていいなあ(笑)。

あ、もうひとつインタビュー記事がふえてる

さて、提出締切が近づきました。
 ・本学学生以外:10月31日(土)必着( 持込み不可 ・郵送のみ受付 )
 ・本学学生及び大学院生:同日17:00までに環境・建築デザイン学科事務室

提出物は以下の3つです。
 ・A2サイズ(420mm×594mm)の図面1枚。片面横使い。
  ただし、立体、額装、パネル化は不可。

 ・PDFデータを保存したCD-R1枚 300dpi程度 10MB以内
  ※ファイル名は受付番号+姓[半角].pdfとする。(例:001yamada.pdf)
  ※CD-R上にも同じファイル名を記入すること。
  ※特殊フォントを用いた場合は、アウトライン化すること。

 ・応募用紙[PDF:420KB] →ダウンロードして必要情報を記載する。

内容は、ドローイング、配置図・平面図・断面図・立面図などの図面、コンセプト等を説明する文章、その他必要と思われるもの。縮尺、表現方法は自由。


あ、さらにもうひとつインタビュー記事がふえてました

ま、とにかく、こんな感じの「授業」なので、たくさんのご応募を待っています。

対話篇09 花→青 15

学生の皆さんへ。
参考資料の配布です。「Detour Exhibition - Jun Aoki」。
Detourは、迂回とか遠回り、でいいのかな。
ここで他の作家の作品もぜひ見てみましょう。

Detour Exhibition - Jun Aoki from Moleskine ® on Vimeo.

対話篇09 花→青 14

青木君の口から「経験」という言葉が出ると、「テレタビーズ」 (Teletubbies) を取り上げた理由が何となくわかるような気がするから不思議だなあ。あなたは得な性格です(笑)。

イヴ・ブリュニエについての記述も、「それがつまり、「ランドスケープ」というとりあえず伝統的に措定されてきた既存の領域だったわけですけれど、さて、それで収まるものだったかどうか」というあたりも「なるほど!」と思いました。

青木君が独立して最初に使った「動線体」という言葉にも「経験」というニュアンスはあったんだけど、「その辺に、ぼくのいまの関心があります」という思わせぶりな口調からは、その後の「モノ」的指向が加わって、きっとより総合的な視点が提出されるんだろうなあという期待がむくむく。モノ(あるいは空間)と経験の両方が、それこそ先日の「具体」と「抽象」みたいな同時存在となれば、こりゃすごいよね。

ところで、この「同時存在」ぶりからは、僕が『建築文化』(1999年11月号)の青木君の特集号でに書いた「青木淳論序説」(これで読めるよ)の最後で図とともに提出した、別名「ずん胴モデル」(当時の青木君の体型から連想したわけではありませんが、笑)と呼んだ「青木モデル」を思い出した次第です。そんなことはないよと言うでしょうが、結構青木君の本質を言い当てていたのかも、なあーんて勝手に思ったりしました。

ちっともドローイングの話になりませんが、学生の皆さん、今月いっぱいが締め切りです。面白い作品、期待してますよ。

ところで、「経験」と「ドローイング」という言葉が関係がありそうと言われてみると、なるほど、かつて刺激を受けたものはそういうことだったのかもと思います。

ベルナール・チュミの「ジョイスの庭」、アルド・ロッシの一連のイタリアの都市の風景画など、それぞれイメージは違うけれど、「都市的経験」というものを図化し、そこから建築をつくり上げたんでしょうね。
「ジョイスの庭」は画像がインターネットで見つからないなあ。
昔の『a+u』に載ってるから、学生諸君は図書館で探してみて下さい。
とりあえずはこれを読むとか。

そういう意味では、今回の「ドローイング」とは、学生諸君が都市や風景をどうとらえているのかを示すもの、かもしれないですね。

対話篇09 青→花 13

花田くん、この前、話したことを実に的確にまとめてくれたので、ぼくがつけ足すことは、もうなにもありません。どうもありがとう。

この前は、ドローイングについて話すにあたって、なにか適当な材料がないかなあ、と見つくろっていて、久しぶりにイヴ・ブリュニエのことを思い出しました。

講義で、イヴ・ブリュニエを知っている人、手を上げて、と聞いて、手をあげた人がひとりもいなかったので、念のため書いておきます。イヴ・ブリュニエは、1991年、28歳になる直前に亡くなってしまったので、5年間という、ほんとうに短い活動期間しかないのですけれど、その5年の間、彼は、レム・コールハースやジャン・ヌーヴェルなどの仕事に、「ランドスケープ・アーキテクト」として参加しました。

イヴ・ブリュニエの仕事がまとまっている出版物として、ぼくはこれしか知りませんけれど、そこにはかなり多くのドローイングが収録されています。描かれているのは、「かたち」ではありません。「構成」でもありません。そういう客観的なものではなく、もっと主観的なものです。その場所を体験することで立ち上がるだろう空気の質であり、それと同じ質になるように、手で荒っぽくちぎったような断片でコラージュされ、パステルが重ねられたドローイングです。

イヴ・ブリュニエは、空間を、モノとしてではなく、経験として捉える視点に立っていました。そして、だからこそなのだと思うのですけれど、設計の道具として、彼は、ドローイングを多用しました。自分がそこにいるときに、自分はどう感じるだろうか。あるいは、自分はどう感じたいと思っているのか。それを考えながら、彼は、写真を切り裂き、絵の具の乗せ、パステルを擦り、人物を描き込んだのだろうと思います。たしかに、こういうことは、模型よりもずっと、ドローイングに向いています。

建築にせよ、都市にせよ、そのどちらもまた、モノとしてではなく、経験として捉える視点から設計することができるはずなのですが、彼にあてがわれたのは、それらとは独立して、しかしそれらを補完する立場でした。それがつまり、「ランドスケープ」というとりあえず伝統的に措定されてきた既存の領域だったわけですけれど、さて、それで収まるものだったかどうか。その辺に、ぼくのいまの関心があります。

対話篇09 花→青 12

中間講評会のレクチャーで青木君は、「テレタビーズ」 (Teletubbies) というイギリスの子供向けテレビ番組の動画も映した。「こんな世界の経験が本当にあったならどうだろうか」と考えるらしい。彼が現在設計している杉並区の体育館のヒントでもあるとのことでした。
「世界をつくる」というわけです。
このサイトは「通信教育」なのですから、再掲しておきます。
同じかどうかわからないですが、下はYou Tubeにあったもの。
学生諸君のご参考までに。
何の参考にすりゃいいんだろうって?
それは自分で考えてね。

対話篇09 花→青 11

ちょっと間があいてしまいました。
10月5日の中間講評会の報告や感想を書こうと思いながら、後期の授業が始まったり、日土小学校関係の原稿に追われたりしてまとまった時間がとれません。
いまもパソコンの画面の上には、その原稿のファイルが開かれています。一旦書き終えたのですが、編集者と誌面イメージを話す中で、大幅に書き方を変えようということになったわけです。わりとドライに書いていたのですが、物語性を加えないと伝わらないことが多いのではないかという判断が下り、全体にがさっといじっています。

こんなこといくら書いても仕方ないですが(半分息抜きです)、でもまあ学生諸君、設計課題の自分の案を、エスキスの中で先生に思い切りいじられたときのことを考えて下さい。大鉈を振るうときにどきどきするのは、設計でも文章でも、学生でも先生でも(笑)、同じなのです。


さて、中間講評会で青木君は、ひとつの思考モデルを提示しました。

   <抽象>    <抽象>   <抽象>

   まぼろし  →  図式  →  もの

   <具体>    <具体>   <具体>

という具合に設計は進むのだけど、いずれのステップにおいても、<抽象>と<具体>の両面をもってないといけないというわけです。
会場で映した映像では、上記の真ん中の3つの言葉の上下に、ぼわーと縦に帯が伸び、それぞれが<抽象>と<具体>を示していました。

菊竹清訓の「か・かた・かたち」論なんかも思い出しつつなんとなく聞いていたのですが、ふと奇妙なことに気づきました。

そう、青木君はさらっとそんなことをいうのですが、でも「まぼろし」の段階での<具体>って何?、<具体>がないから「まぼろし」なんじゃないの?、逆に「もの」の段階での<抽象>って何?、<具体>だから「もの」なんじゃないの?という疑問がわいてきたのです。
そうなると、彼の言っていることが何とも不思議に思えてきます(くるでしょ?)。
ごくふつうに考えれば、<抽象>的な「まぼろし」から何らかの「図式」をつくり、それを<具体>的な「もの」にしていく作業が設計ですからね。
なぜこの人はこんな変なことをさも当然のように言って平気な顔をしてるんだろうというわけです。

彼の話が終わった後、会場での議論でこのことを指摘しましたが、設計とはそういうふうでありたい、そうあるべきだという意志の問題だというふうに理解しました。あるいは、彼はそんなふうに考えているからこそ、あんな建築が設計できるんだなという青木論として。

そしてもちろん話はきちんと「オープンスタジオ」につながるわけで、「図式」のところが昨年は「模型」、今年は「ドローイング」というわけです。

ということで、ここから先は皆さん自分で考えてみて下さい。
<抽象>と<具体>の両面をもった「ドローイング」を描くわけです。
僕にはよくわかりません(笑)。

青木君の話でもうひとつ面白かったのは、「ドローイングは建築単体を考えるのにはあまり役に立たないが、経験を考えるのには役に立つ」という話です。
これなかなりなるほどと思いました。
「模型」との違いという話にもなりそうです。
ドローイングは、まわりをいろいろ引きずり込む、「世界を作る」、そんな感じです。

その事例として青木君が取り上げたのが、イブ・ブルニエ(Yves Brunier)。OMAと恊働したランドスケープアーキテクトですね。
ここから先は自分で調べて下さい。

もう原稿に戻らないとまずいです。

続く。

対話篇09 花→青 10

10月3日の青木君の特別講義と中間講評会が迫ってきて、今日は、学内で中間講評を希望している何人かの学生諸君と話しました。
昨年もそうでしたが、普段の具体的な設計課題とは趣が違うためか、何をしたらいいのかと戸惑う人もいるようで、そのあたりの誤解を解いたり、現代アートのドローイング作品を紹介したりしました。
余計なことかもとか、的外れかもとか、いやいやこういう親切さこそが教育なのなのだとか、これも去年と同じですが迷いつつ、まあいろいろと喋りました。
僕は、神戸芸工大の教育に欠けているのが、この課題のようなコンセプチャルな思考のトレーニングだと思っているので、それを補う場を少しずつ作りたいというわけです。学生諸君も、不慣れなことに臆病にだけはならないでほしい。臆病と自覚してるうちはまだマシだけど、いつしかそれが億劫になり、不感症になり、欠陥に気づかなくなったらおしまいです。

今日は、以下のような本やカタログを見せながら学生諸君と話しました。

■安藤忠雄や槇さんの作品集。その中のスケッチやコラージュを紹介し、「これは今回いうところのドローイングだ、これはぜんぜん違う、これは中間くらい」そんな話です。
■青木君の青森用の例の断面のスケッチ。
■ミースの作品集で、対話編で書いたことの復習。
Herzog & De Meuronの "Natural History"。 この中の、さまざまな模型によるスタディを紹介。たとえば、「模型の」素材をかえることによって、新たに生まれる空間の質に対応した建築空間を考えるという順番であり、「模型の」素材がアルミであっても実物の素材がアルミだとは限らないという自明のことの再確認。そして「模型」という言葉の「ドローイング」への置換。
■若林奮の展覧会のカタログ。東京国立近代美術館での展覧会(1987年)と、豊田市立美術館での展覧会(2002年)のもの。対話編で書いたことの説明。
野村仁の東京国立近代美術館での展覧会(2009年)のカタログ。時間を様々な手法で平面上に定着させている作品の紹介。
松井みどり『マイクロポップの時代:夏への扉』(PARCO出版 、2007年)の中の「痛い」ドローイングについて。
■目黒区美術館で昔おこなわれた「戦後文化の軌跡1945-1995」展(1995年)のカタログ
ピーター・ドイグのドローイングのこと。
■その他、いろいろ。

建築化の手前で、言葉によらず、描くことによる思考に留まってみること。

10月3日の青木君の特別講義、みんな来て下さいね。
学外の人も、これからささっと何か描いて、出展してみませんか。

対話篇09 花→青 9

9月27日(日)はオープンキャンパスで、高校生にこのサイトなどを見せながらオープンスタジオの説明をしたら、通じました。
「建築の設計を、機能や敷地や予算やらの条件から考えていってスケッチ化し模型をつくるんじゃなくて、その順序を逆にしてみると、それまでのやり方じゃ見つからなかった新しい建築を発見できるんじゃないかという実験なんですよ」。これで、高校生にもわかる!

何度も話題にする若林奮ですが、彼とまえだ英樹の対談集『対論◆彫刻空間 物質と思考">対論◆彫刻空間 物質と思考』(書肆山田、2001年)を読んでいると、まさにこのオープンスタジオの彫刻家版といえる思考や発言が随所にありました。つまり、若林奮は鉄を中心にした抽象的な彫刻作品を作る作家ですが、同時に平面つまりドローイング作品も多く発表し、しかもいずれの作品タイトルにもきわめて詩的な言葉がつけられることについて、評論家の前田がいろいろと尋ね、作家としての若林がそれに答えているのです。これが、彫刻を建築に置き換えると、まさにオープンスタジオの対話篇なのです(笑)。

全部書き写したいくらいですがそうもいきません。
ただとにかく、モノとしての彫刻を作る作業、平面上に線を描く作業、それらにタイトルとしての言葉を与える作業、この3つの若林の中での位置づけが、今回の「ドローイングから建築へ」ときわめてパラレルなのです。

まず若林は、鉄という素材について、「鉄はある尺度になる」とか「粘土は物質としては捉えていなかったと思います」とか発言しています。前田はそれを「「鉄と出会った」と若林さんがおっしゃる時の<鉄>は、この鉄それ自体が為すイデアルな表現だということになる」と評論家らしく言葉にしますが、ともかく、この「鉄」という言葉を「建築」に置き換えてみると、建築を言葉から解放した青木君の一連の仕事と重なります。

前田は、若林の作品名の詩的なタイトル、たとえば「振動尺」といった言葉を取り上げて、「若林さんの場合、「言葉」が彫刻の仕事の切れ目をつなぐかのように断続的に現れてくる」「いつも必然的に内側に言葉による探求を含んでいるのだ」と、やや「言葉」寄りの解釈を示しますが、若林は「言葉がそういうものかどうかは私自身はよくわからないんですが」「つくっている時は、ある素材やそれが変化していく状態と自分との両方がないと成立しない。作品ができていく、その時、私自身には言葉があります」と答え、まさに前回書いた言葉原理主義に対する「イエローカード」が出されているといえるでしょう。とくに、作品の前にではなく、「作品ができていく、その時、」言葉があるという感覚は、青木君の言うオーバードライブ感に近いように思います。

ドローイングについては、まさに「ドローイング―奥行の小さい彫刻」という節があるのですが、若林は自分のドローイングについて(以下、「絵画」がそれに相当)、「前田さんのお話で、絵画と彫刻の二つを指摘されましたが、私は絵画ができていないのではないかと思うのです。表現法や形式は絵画のふりをしているようなものも、ほとんど物質の話の中に収まるもののように思える。あるいは彫刻の一つの形式―薄い彫刻―と言うんでしょうか・・・そういうところに多分入れてよいんではないかと自分では思っています」と答えます。
面白いですね、どこまでいってもモノとして彫刻として平面上の描写もとらえている。おそらく、言葉についてすらそういう感覚の中でとらえているのでしょう。

さらに前田が、「紙の上に描くことによって彫刻にない何が捕えるお考えですか?」と、まさに今回のオープンスタジオの問題のような質問をすると(笑)、若林の答えは非常に繊細というか、どんどんモノの世界に迷い込んでいくのです。長いですが写します。

「紙に書く場合、奥行きが小さいことによって空間性が非常に変わってくるということがまず一つあると思います。たとえば木炭を使って紙に描くという時、それは、物である紙に木炭を付け加える、ということになります。物としての紙は厚みや重量はあるのですが、その上に線を描くことによって、紙は少し変わるように思われます。それ自体が私の前にある現実的な空間を少し変え、空間を無性格にすると言えるのではないかと思います。しかも、その作業は単純で、短時間のうちに、各時間の断片に対応することができる。それから色を使った場合ですが、私が考える色は素材・材料そのものが持っている色ということがまずあります。それが、いろいろな光によって変化することもあります。それからさらに、自分が絵の具を使って付け加えてゆくということもあるのですが、彫刻の場合、描線や彩色をすることは別の意味を持つように思えるんです。描線や彩色は、彫刻の延長上の仕事ではあるけれど、私の場合はむしろ、それまでの作業の中から一部を消してゆく作業だろうとも思えます。けれど、奥行きの小さな紙の場合は、紙や綿や鉄や銅などのどれかと重ね合わせ、それぞれの素材と代えられることもあり、彫刻とは別のこともああるようです。消し去る・弱めてゆく過程のものではなくて、何と言えばよいのでしょうか―物を染める、と言うんでしょうか・・・物を変化させる、と言えばよいでしょうか―そういうような使い方ができるのではないかというふうに考えることもあります。」

きりがないのですが、僕には、<彫刻をドローイングによって語る>というような感覚がよく伝わって来ます。「言葉によって」ではなく、です。
あくまでも「言葉」は、最初に書いたように、「作品ができていく、その時、」にある。
途上においてはドローイングなんだ、というわけです。
だから、言葉における単語や文法やレトリックに相当するドローイングの物質性のさまざまな特性に、彼の眼は向いていく。彫刻に最も優しく寄り添うのは、彼の場合、言葉ではなくドローイングなのですね。

と考えてくると、このオープンスタジオの「ドローイングから建築へ」、あるいは昨年の「模型から建築へ」というテーマの意図と、ぴったり重なるではありませんか!

長々と書いてきて、ま、要するにとくくったのでは身もふたもないけど、つまりは「<ドローイング(だけ)によって>考える」ということなんですね。

思考の場と道具を、頭の中から「紙」の上に移すこと。
「言葉」による思考の組み立てを、「鉛筆」のタッチや腕の「動き」に置き換えること。

ひらがなの一文字ずつのようなドローイング、
それらを子どもが初めて組み合わせて発語した言葉のようなドローイング、
逆にさっと提示された物語のように、部分よりも全体が見えるドローイング、
言葉というより耳障りな音のようなドローイング、
数学のような構築美のあるドローイング、

「言葉」の比喩にしたのでは元も子もないけど、ヒントにはなるだろうな。
でも必要なことは、この逆のベクトル。
「ドローイング」による新たな空間の発見。

Appendix

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