9月27日(日)はオープンキャンパスで、高校生にこのサイトなどを見せながらオープンスタジオの説明をしたら、通じました。
「建築の設計を、機能や敷地や予算やらの条件から考えていってスケッチ化し模型をつくるんじゃなくて、その順序を逆にしてみると、それまでのやり方じゃ見つからなかった新しい建築を発見できるんじゃないかという実験なんですよ」。これで、高校生にもわかる!
何度も話題にする若林奮ですが、彼とまえだ英樹の対談集
『対論◆彫刻空間 物質と思考">対論◆彫刻空間 物質と思考』(書肆山田、2001年)を読んでいると、まさにこのオープンスタジオの彫刻家版といえる思考や発言が随所にありました。つまり、若林奮は鉄を中心にした抽象的な彫刻作品を作る作家ですが、同時に平面つまりドローイング作品も多く発表し、しかもいずれの作品タイトルにもきわめて詩的な言葉がつけられることについて、評論家の前田がいろいろと尋ね、作家としての若林がそれに答えているのです。これが、彫刻を建築に置き換えると、まさにオープンスタジオの対話篇なのです(笑)。
全部書き写したいくらいですがそうもいきません。
ただとにかく、モノとしての彫刻を作る作業、平面上に線を描く作業、それらにタイトルとしての言葉を与える作業、この3つの若林の中での位置づけが、今回の「ドローイングから建築へ」ときわめてパラレルなのです。
まず若林は、鉄という素材について、「鉄はある尺度になる」とか「粘土は物質としては捉えていなかったと思います」とか発言しています。前田はそれを「「鉄と出会った」と若林さんがおっしゃる時の<鉄>は、この鉄それ自体が為すイデアルな表現だということになる」と評論家らしく言葉にしますが、ともかく、この「鉄」という言葉を「建築」に置き換えてみると、建築を言葉から解放した青木君の一連の仕事と重なります。
前田は、若林の作品名の詩的なタイトル、たとえば「振動尺」といった言葉を取り上げて、「若林さんの場合、「言葉」が彫刻の仕事の切れ目をつなぐかのように断続的に現れてくる」「いつも必然的に内側に言葉による探求を含んでいるのだ」と、やや「言葉」寄りの解釈を示しますが、若林は「言葉がそういうものかどうかは私自身はよくわからないんですが」「つくっている時は、ある素材やそれが変化していく状態と自分との両方がないと成立しない。作品ができていく、その時、私自身には言葉があります」と答え、まさに前回書いた言葉原理主義に対する「イエローカード」が出されているといえるでしょう。とくに、作品の前にではなく、「作品ができていく、その時、」言葉があるという感覚は、青木君の言うオーバードライブ感に近いように思います。
ドローイングについては、まさに「ドローイング―奥行の小さい彫刻」という節があるのですが、若林は自分のドローイングについて(以下、「絵画」がそれに相当)、「前田さんのお話で、絵画と彫刻の二つを指摘されましたが、私は絵画ができていないのではないかと思うのです。表現法や形式は絵画のふりをしているようなものも、ほとんど物質の話の中に収まるもののように思える。あるいは彫刻の一つの形式―薄い彫刻―と言うんでしょうか・・・そういうところに多分入れてよいんではないかと自分では思っています」と答えます。
面白いですね、どこまでいってもモノとして彫刻として平面上の描写もとらえている。おそらく、言葉についてすらそういう感覚の中でとらえているのでしょう。
さらに前田が、「紙の上に描くことによって彫刻にない何が捕えるお考えですか?」と、まさに今回のオープンスタジオの問題のような質問をすると(笑)、若林の答えは非常に繊細というか、どんどんモノの世界に迷い込んでいくのです。長いですが写します。
「紙に書く場合、奥行きが小さいことによって空間性が非常に変わってくるということがまず一つあると思います。たとえば木炭を使って紙に描くという時、それは、物である紙に木炭を付け加える、ということになります。物としての紙は厚みや重量はあるのですが、その上に線を描くことによって、紙は少し変わるように思われます。それ自体が私の前にある現実的な空間を少し変え、空間を無性格にすると言えるのではないかと思います。しかも、その作業は単純で、短時間のうちに、各時間の断片に対応することができる。それから色を使った場合ですが、私が考える色は素材・材料そのものが持っている色ということがまずあります。それが、いろいろな光によって変化することもあります。それからさらに、自分が絵の具を使って付け加えてゆくということもあるのですが、彫刻の場合、描線や彩色をすることは別の意味を持つように思えるんです。描線や彩色は、彫刻の延長上の仕事ではあるけれど、私の場合はむしろ、それまでの作業の中から一部を消してゆく作業だろうとも思えます。けれど、奥行きの小さな紙の場合は、紙や綿や鉄や銅などのどれかと重ね合わせ、それぞれの素材と代えられることもあり、彫刻とは別のこともああるようです。消し去る・弱めてゆく過程のものではなくて、何と言えばよいのでしょうか―物を染める、と言うんでしょうか・・・物を変化させる、と言えばよいでしょうか―そういうような使い方ができるのではないかというふうに考えることもあります。」きりがないのですが、僕には、<彫刻をドローイングによって語る>というような感覚がよく伝わって来ます。「言葉によって」ではなく、です。
あくまでも「言葉」は、最初に書いたように、「作品ができていく、その時、」にある。
途上においてはドローイングなんだ、というわけです。
だから、言葉における単語や文法やレトリックに相当するドローイングの物質性のさまざまな特性に、彼の眼は向いていく。彫刻に最も優しく寄り添うのは、彼の場合、言葉ではなくドローイングなのですね。
と考えてくると、このオープンスタジオの「ドローイングから建築へ」、あるいは昨年の「模型から建築へ」というテーマの意図と、ぴったり重なるではありませんか!
長々と書いてきて、ま、要するにとくくったのでは身もふたもないけど、つまりは「<ドローイング(だけ)によって>考える」ということなんですね。
思考の場と道具を、頭の中から「紙」の上に移すこと。
「言葉」による思考の組み立てを、「鉛筆」のタッチや腕の「動き」に置き換えること。
ひらがなの一文字ずつのようなドローイング、
それらを子どもが初めて組み合わせて発語した言葉のようなドローイング、
逆にさっと提示された物語のように、部分よりも全体が見えるドローイング、
言葉というより耳障りな音のようなドローイング、
数学のような構築美のあるドローイング、
「言葉」の比喩にしたのでは元も子もないけど、ヒントにはなるだろうな。
でも必要なことは、この逆のベクトル。
「ドローイング」による新たな空間の発見。