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対話篇09 花→青 4

ミースの話を書いたのは、たまたまMOMAのデータベースに画像があったからなのでしたが、さすがにいろいろと考えさせてくれますね。
青木君の言うように、彼のドローイングのひとつの特徴は、背景に広がる「死んだような町」ですね。そこに、人や車を「描かなかったこと」によって、彼の描写、つまり「描くこと」が特徴づけられている。
ミースの住宅のスケッチには人が描かれることが多いけど、しかしそれでもぽつんとひとり、しかも人が、ではなく、その影が描かれているような描かれかたですよね。つまり、そこでも人を描かないことが描かれている。

そういったドローイングを見ていると、神としてのミースがまずは空間だけを創造し、人間はこれから徐々につくっていこうとしているような感じすらします。

で、こういう感じって、模型だとどうなるんだろと思ったんですね。
そしたらMOMAのデータベースにはちょうどスカイスクレーパープロジェクトの模型もありました。
これ自体は後に作ったもののようですが、ミースの当時の模型写真もいろんな本に出てますよね。円形のコアが2つあって、外形も曲線のやつ。
残念ながら平面図はこのデータベースにありませんが、その図面とこの模型の一番の違いは、図面には柱が描かれてなく、模型にはそれがあるということだと思います。別の例だけど、この平面図にも柱がないですよね。やはり、こういうふうに見せたいと思ったんでしょうね。

でも一番すごいと思うのは、前回書いたようにやはり立面図で、これは足元に既存部の建物のシルエットが描いてあるから、かろうじて高層建築だろうとは想像がつくけど、それにしても、装飾や三層構成やらによって何らかの分節があるという古典的な建築の常識からすると、何とも不可解なオブジェなわけです。
でも、柱のはいった模型の方からは、あまりそういう異界の雰囲気のようなものは漂ってこない。

ドローイングと模型の違いを見出そうとすると、こういうことかもしれないなと思います。
つまり、ドローイングの方が、さまざまな言語的思考を反映させたり、そこから引き出したりしやすい、ということ。

もちろん次元がひとつ少ないわけだから、具体性が減り抽象度が増すのは当然といえば当然ですが、むしろそれによって表現できる世界がかえってクリアになる。

だから、僕が今回、学生諸君の「ドローイング」に期待しているのは、昨年の「模型」以上にそこから言葉が引き出せる表現です。
ドローイングって、無意識の感覚的な落書きではなく、何らかの意図のもとで描かれる知的な表現行為なんだと思う。「模型」は逆に、それによって意図を確認する道具だったような気がします。
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