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対話篇09 花→青 6

昨年は「書いたよー」とお知らせメールを送り合っていましたが、今年はarchitecturephoto.netさんのフォローが驚くほど早く、お知らせを交換しなくても、朝起きてまずそこを覗くと青木君から返事があったことがわかります。このサイトへのアクセス解析でも、経由先としてダントツの多さ。architecturephoto.netさん、ありがとうございます。

さて、「でも、そのドローイング、なぜ「無意識の感覚的な落書き」ではだめなの?」というのは覚悟していた反応です。きっと昨年の「模型」のときも、それから普段でも、青木君と話していると必ず一度は遭遇してしまう齟齬感ですね、きっと。
言葉と建築(というか、ドローイングや模型、あるいは要するにモノ)の優先順位を、ほんの少しでも言葉側に寄せた途端、青木君からはさっとイエローカードが示される(笑)。

なので、例によっての返事になってしまいますが、僕はべつに「言葉帝国主義」を振りかざしているわけではなく、「無意識の感覚的な落書き」には「言葉」がないからだめだ、と言っているつもりもありません。
そうではなくて、ある「無意識の感覚的な落書き」から「建築へ」の飛躍や接続が可能ならば、その「無意識の感覚的な落書き」からは必ず「言葉」が引き出すことができ、そうなった途端、僕にとってそれは「無意識の感覚的な落書き」などではなくなるということだけなのです。

「「言葉」が引き出せないといけないのか」、という質問がすぐに飛んできそうですが、「無意識の感覚的な落書き」を描いた本人には難しくても(何しろ「無意識」なんだから)、別の人間が引き出せるかどうか、しかも優れた言葉が引き出されるかどうかこそが僕にとっては重要な問題であり、まさにその引き出し役、いわば翻訳者でありたいと思っています。

ただし、翻訳したくなる「無意識の感覚的な落書き」とそうじゃないものとがあるわけで、その両者を区別する判断は「言葉」ではおこなっていない。なぜなら、何しろ「言葉」を引き出す前なんだからできっこない、できてはいけない。でも別の何らかの方法によってできている。

言葉と建築(というか、ドローイングや模型、あるいは要するにモノ)の関係で一番面白いのは、まさにこの両者の境界線を、いずれの方法にもよらずふっと越える感覚なんだと思います。学生諸君に期待しているのは、もちろんこの一瞬の越境を可能にする企てです。


ところで、10月3日、神戸芸工大での講義と中間講評、よろしくね。
もちろん学外の方もOK。多数のご参加をお待ちしています。

で、今日はその講義のポスターをつくろうとしていたのですが、タイトルはもちろん「ドローイングから建築へ」ですが、何か「ドローイング」も要るよなあということになり、青森県立美術館のときの以下の断面スケッチを挙げた人がいたのですが、これは今回の課題にいう「ドローイング」なのか僕は迷い、結局、特別な絵は入れずにデザインしました。
どう?というのは、この断面スケッチは今回青木くんの言う「ドローイング」の範疇にはいるものなのかな。
aomori

質問ついでに、以前書いた2つの質問にも触れてもらえると嬉しいな。
(1)第1信での質問
青木君にとって、「建築」へと展開した、あるいは展開するといいなあと思う「ドローイング」というのは、たとえばどんなものですか。つまり去年の「晶洞(ジオード)」に相当するもの。

(2)第2信での質問
「模型」という言葉は青木君の設計と結びつけてイメージできたんだけど、実は「ドローイング」という言葉は僕の中では青木君とあまりつながりません。そういう発想で青木君、設計してるの?
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