青木君の口から「経験」という言葉が出ると、
「テレタビーズ」 (Teletubbies) を取り上げた理由が何となくわかるような気がするから不思議だなあ。あなたは得な性格です(笑)。
イヴ・ブリュニエについての記述も、「それがつまり、「ランドスケープ」というとりあえず伝統的に措定されてきた既存の領域だったわけですけれど、さて、それで収まるものだったかどうか」というあたりも「なるほど!」と思いました。
青木君が独立して最初に使った「動線体」という言葉にも「経験」というニュアンスはあったんだけど、「その辺に、ぼくのいまの関心があります」という思わせぶりな口調からは、その後の「モノ」的指向が加わって、きっとより総合的な視点が提出されるんだろうなあという期待がむくむく。モノ(あるいは空間)と経験の両方が、それこそ先日の「具体」と「抽象」みたいな同時存在となれば、こりゃすごいよね。
ところで、この「同時存在」ぶりからは、僕が『建築文化』(1999年11月号)の青木君の特集号でに書いた「青木淳論序説」(
これで読めるよ)の最後で図とともに提出した、別名「ずん胴モデル」(当時の青木君の体型から連想したわけではありませんが、笑)と呼んだ「青木モデル」を思い出した次第です。そんなことはないよと言うでしょうが、結構青木君の本質を言い当てていたのかも、なあーんて勝手に思ったりしました。
ちっともドローイングの話になりませんが、学生の皆さん、今月いっぱいが締め切りです。面白い作品、期待してますよ。
ところで、「経験」と「ドローイング」という言葉が関係がありそうと言われてみると、なるほど、かつて刺激を受けたものはそういうことだったのかもと思います。
ベルナール・チュミの「ジョイスの庭」、
アルド・ロッシの一連のイタリアの都市の風景画など、それぞれイメージは違うけれど、「都市的経験」というものを図化し、そこから建築をつくり上げたんでしょうね。
「ジョイスの庭」は画像がインターネットで見つからないなあ。
昔の『a+u』に載ってるから、学生諸君は図書館で探してみて下さい。
とりあえずは
これを読むとか。
そういう意味では、今回の「ドローイング」とは、学生諸君が都市や風景をどうとらえているのかを示すもの、かもしれないですね。
スポンサーサイト
- http://envopenstudio09.blog62.fc2.com/tb.php/35-e644c668
0件のトラックバック
コメントの投稿