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山神達彦:そこにあるもの

そこにあるもの
山神達彦 神戸芸術工科大学 環境・建築デザイン学科 3年

045yamagami

【講評】
ここで語られている、とことん突き放された感じの魅力は、たとえば、坂口安吾が、うまく言葉にしています。(「文学のふるさと」とか、「日本文化私感」とか。)作者は、それが、単に環境の巨大さによるのでもなく、またその特徴的な形によるのでもなく、では、どんな要因によって生まれる感覚なのか、ということを、ドローイングを描くことによって探ろうとしているようです。おそらく、分節の密度分布のありかた、形が生まれてくるときのその根元にある厳密な生成ルールの存在、生成時に起きる暴走、といったところが、その答えになるでしょうか。こういうスタディから出てくる空間に、期待しています。(青木淳)
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8件のコメント

[C92]

返信ありがとうございます。
コメントをして、その返信をみて、僕もたくさんのヒントをもらっているところです。
山神くんの作品を見て、改めて自分の作品を見直す機会がありました。
「死後の世界」だとかみたいな話もありましたが、ドローイングに相対したときの距離感みたいなのは忘れちゃいけないなと思いました。手法にのめりこんで、最後の作品にその距離感が残されてなかったらしょうがないですしね。
  • 2009-11-27
  • 吉丸
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[C90]

コメントありがとうございます。
自分のドローイングに対しては、友達とかに「なんか死後の世界みたい、、、」とか、「原爆みたい、、、」とかいろいろ言われて困ってます。

なんかドローイングが独り歩きを始めてしまって、、、。

しかしそれは率直な意見だし、まったく否定もできないと思います。

吉丸さんの「砂の女」の話もそうですが、日常の中にある常識から逸脱していること、まったく同じものが別のものに見える感覚というのは、確かにあると思います。少しヒントをもらいました。
  • 2009-11-27
  • 山神
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[C81]

なんとなく今思ったんですが、山神くんのドローイングって、監視カメラからみた映像っぽくないですか?ホラーゲームにでてくるような、解像度低めの
  • 2009-11-24
  • 吉丸貴一郎
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[C33] Twitter的な

「砂」つながりで、関係ないかもしれないけど。安部公房『砂の女』から。
「…一滴の水をたよりに土間の水甕に向かって歩きだす。ふと、イロリの向うで寝息をたてている、女に気づいた。男はまぶたの痛みも忘れて、息をのんだ。女は素裸だったのだ。涙でにごった視界のなかに、女は影のように浮かんで見えた。畳の上に、じかに仰向けになり、顔以外の全身をむきだしにして、くびれた張りのある下腹あたりに、軽く左手をのせている。ふだん人が隠している部分は、そんなふうにむきだしにしているのに、逆に、誰もが露出をはばからない、顔の部分だけを手拭いで隠しているのだ。むろん、眼と呼吸器を砂から守るためだろうが、そのコントラストが、裸体の意味を、いっそうきわ立たせているようだった。しかも、その表面が、きめの細かい砂の被膜で、一面におおわれているのだ。砂は細部をかくし、女らしい曲線を誇張して、まるで砂で鍍金された彫像のように見えた。」
昔、読んだときに、この文章にゾクリときたのをまだ覚えています。
  • 2009-11-15
  • 吉丸
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[C31]

コメントありがとうございます。

すっと頭の中のもやもやが、晴れてくるような気分です。
僕の理解は、坂口さんのかなり断片的な解釈にとどまっていたような気がします。坂口さんの言葉に面白いと感じていたのは、なにかすでに用意されたものの見方ではなく、坂口さん自身の視点というか、すでに形式として成り立っているものの奥に(例えば文学についても)なにがあるのかという探求だったのかなと思います。

あれから自分のドローイングを見つめ続けて、そこになにがあるのかということをずっと考えていました。一つは、時間なのかなと思いました。自分のドローイングの一つは、たぶんこの次の瞬間にはまったく様相が変化しており、その瞬間を捉えているように見えます。動的な空間というか、その予感というか・・・・。(この感じは他の人のドローイングにも感じました。)その消え去ってしまいそうな恐怖のような感覚に自分自身魅力を感じたのではないのかと思ったりします。

あと、もう一つのドローイングでは、遠近法的な解釈が成り立たないような気がしています。あるいは、見ている視点自体が二重になっているというか、残像のようなものが出来ているような。

木炭のがさついた質感や鉛筆のシャープな透明感にもなにか“突き放されたもの”を感じています。

まだぜんぜんうまく言語化できていないので、もう少し自分のドローイングに向かってみたいと思います。
  • 2009-11-14
  • 山神
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[C26]

どうも、読みとってもらいたかったところが伝わらなかったようで、残念。

小菅刑務所やドライアイス工場が美しいとか、その理由として、やむべからざる実質がもとめた所の独自の形態だから、というのは、坂口安吾さんが書いたなかで、いちばんどうでもいいところ。
大切なのは、彼にとって、人がコントロールできないものの存在がそこにあること、そして、それがなぜ、「極限の世界で感じる孤独感のような、しかしどこかすがすがしくもあり、心に直接訴えかけてくるもの」なのか、ということをずっと考えていた、ということでした。

まあ、それはともかく、「極限の世界で感じる孤独感のような、しかしどこかすがすがしくもあり、心に直接訴えかけてくるもの」が、機能の追求の果てにないことは言うまでもありません。
なぜなら、機能は、物事のなかで人がコントロールできると考えた側面のことをいうのですから。
(ここが、モノには疎い坂口さんが間違えたところです。)

では、その「心に直接訴えかけてくるものとはなにか?」それをドローイングを通して考えてみる。
こういうときの考え方というのは、まず描いてみて、これを落し、あれを残す。それから、どうしてそういう選択をしたか、その基準を考えてみる、ということですね。
ただ、ドローイングをいっぱい描くということではダメで、自分の作業についての客観的視線(つまり誠実な言語化)が必要です。
  • 2009-11-13
  • 青木淳
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[C15]

先日授業で会ったら、さっそく『堕落論・日本文化私観 他二十二篇 』(岩波文庫))を読んでいましたね。偉い!
そこで山神君から出た言葉、「坂口安吾というのは、要するに「工場萌え」ということですか」は最高でした。
今風に言えばそうなるのかもしれませんね。
意味をそぎ落していった先に浮かぶ美、だよね。
「カミオカンデ」とか?

[C7] そこにあるもの

山神達彦と申します。よろしくお願いします。

ご講評ありがとうございます。今回、貴重な機会を与えられたのでいろいろ自分で考えたことや質問したいことを思い切ってぶつけてみたいと思っています。

僕は鉛筆と木炭を使ってドローイングをしました。その出発点はオルドスの砂漠の風景でした。この極限の世界で感じる孤独感のような、しかしどこかすがすがしくもあり、心に直接訴えかけてくるものは何なのか、ということを考えながら描き進めていくうちにいくつかの手掛かりとなるものを拾っていくという作業をしています。

講評で紹介された坂口安吾の本はまだ読んだことがなかったので、さっそく読んでみました。“「日本文化私観」の中で坂口が言っている、“「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態“のくだりはとても理解できました。しかし、それがどういった”やむべからざる実態“なのかははっきりと納得はできませんでした。坂口の言うように、小菅刑務所やドライアイス工場の美しさは理解できるのですが、機能からのみ実態が出来上がるとはどうしても思えませんでした。先生はこのことについてどう考えておられるのでしょうか。
そして今の段階では、どちらかというとその逆方向に進んでいるように感じていて、それは間違っているのでしょうか。

青木先生、花田先生、コメントよろしくお願いいたします。
  • 2009-11-09
  • 山神
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